投稿

3月, 2020の投稿を表示しています

愛しているとか、いないとか。

イメージ
フィジカルなセックスを求めるとき、 愛しているとかいないとか、そんなことより!という昂りとともに 身体がその快感を求めてしまうとき。 それは本当に肉体の快感だけで済まされるものでしょうか。
肉体が滅びても魂は残る、などといわれるけれど。 それはその肉体に宿った魂こそが命、といっているようなもの。 魂をもっとカジュアルに「想い」というものに置き換えたとき、 セックスとはそういうものなのではないか、と思うのです。

目隠しをして、誰か知らない人に肌を撫でられることと、 これはあの人の指・・・と思って触られる感覚は、決して同じではないはず。 肉体の感じる粘膜が引き起こす快感と、 その快感を引き出してくれる相手との関係性。 快感と「想い」とは深くリンクしているのだろうと。

セフレと呼ばれる関係は「セックスだけのおつきあい」なんて解釈されますが、 本当にそうなのでしょうか。 推測するに、粘膜だけの快感だったら「フレンド」と呼べるほど、 度重なるお付き合いは成立しないのではなかろうか。 何度か会ううちに、話してみると気が合うとか、案外いい人だなとか、 何かしら相手に対して好意らしき、熱のある想いが動くはず。

何が言いたいかというと、 一度や二度の偶発的なセックスや、金銭が絡むものは別として。 セックスにフィジカルだけの快感は、あり得ないのではないか・・・ということ。 そこに相手とリンクする情報が多いほど、気持ちが動き、 時間を重ねるごとに「情愛」に似た感情が芽生えずにはいられない。 嫌でも好きになるだろうと思うのです。 その情愛というものを意識してしまうと関係性がややこしくなる場合、 敢えて意識しない大義名分として 「セフレ」とか「フィジカル」という言葉を使うのではないか。 そこに動く感情の揺れにフタをしているだけなのでは、と。
感じる強さの差こそあれ、 微塵も情愛を感じないセックスはあり得ない、 なんて極論のようだけど、案外そうなのかなと思います。
でもこれは、 こう感じるのは私が女だからなのでしょうか。

好きな人と抱き合いたくても抱き合うことができないとき。 かつて得た快感の記憶を辿ってその人を想うとき、 身体はしっかりと反応します。 そこに肉体的な刺激があったかのように。

人と深淵に関わることに肉体的なセックスは必要でしょうか。 肉体の交わりなど、じつは大したことではな…

愛というものを絡めてみる。

イメージ
愛のないセックスはいらない。 愛あればこその快感。 フィジカルな繋がりも大事だけど、心と心の繋がりがとても気持ちいい。
・・・・というような、愛という言葉を散りばめた上でのセックス談義は、 とても普遍的なテーマ過ぎて、腰が引けてしまいます。

ここまで、私が書いてきたセックスはとても即物的。 興奮すること、官能のスイッチが入ること。 つまり、勃つこと濡れること。 そういうカラダの反応に感情が巻き込まれた時のことを、あれこれ考えてきました。
愛について語ること、と セックスについて語ること。 これは同じことでしょうと感じる人と、 セックスなんてなくても愛は成立するとリキむ人と。 これらについて語ることは、 感情の振り幅にとても個人差があるので、広告コピーのようにひとことでは語れない。
恋愛とは性欲の詩的表現である。 という言葉に、うなづく人と眉をしかめる人と。 ね、ちがうものね。

性欲が先か、愛情が先か、なんてことも一筋縄ではいきません。 心が動き、気づくとその人のことばかりで頭が埋められ、 もうその人なしには動けない。ストンと恋に落ちてしまったとき、 その時は、その人とのセックスなど、そこまで気持ちが追いつかない。

そいつのことを考えると濡れるか? だったらホンモノだ。 ・・・と、そんな話しもできる私の恩師が言いました。 その男の年収だとか地位だとか身長だとか、 そんなくだらないスペックが頭にあるようじゃあ恋愛とはいえないよな。 ・・・とも。
婚活などという言葉が先走る恋愛事情旺盛の世の中では、 その恩師が「くだらない」と切り捨てる、 スペックありきの恋愛がほとんどかもしれない。 そこに官能があるのか。
それこそが、個人の性欲の在りかが試されることなのでしょうね。

肉体の交わりを超えるもの。

イメージ
人と深淵に関わることにセックスは必要でしょうか。 肉体の交わりなど、じつは大したことではなくて、 相手との想いをお互いに絡めあうことに、性の本質があるような気がします。
抱き合い、体温を感じ合い、呼吸を感じ、確かな命を感じること。 それはどれだけ多くの言葉を交わそうとも、確認できることではありません。 でも、 想いとは肉体を超えて感じ合えるものと信じたい、という理想がどこかにあるのです。
愛したいと想う人がいて、その人の肉体をも愛したいという欲望が生まれる。 それは、その人の持つ肉体を所有してしまいたいというところまで膨らむことさえある。 でも、その愛したいという想いは、 肉体がなくても持続することができる。

たとえば親子の情愛。私は最近、父を亡くしました。 父のことが大好きで、これはもうエディプスコンプレックスに属するレベルで深い情愛を感じていました。 父の肉体が消えたことの喪失感は、例えようもなく、 何をしてもかけがえのないものであったことは確かです。 でも、明らかに父の肉体の消えた今、 どこにも父は居ないけれども父の存在は在るし、感じることができる。 霊的な意味合いではなく、情愛のカタチとして。 それはもちろん、セックスの絡む関係と比べるのは無理があるかもしれないけれど、 愛するというフィールドにおいては、 肉体の意味することは同じではないかと、思うのです。

セックスが意味を持たない、ということではなく、 実際に肉体を絡めなくても、セックスという意味は成立するのではないかと。 生殖行為としてのセックスは、もちろん肉体の交わりなくしては成立しません。 けれども、幸福感に包まれ精神的なぬくもりに満たされるという意味合いでのセックス。 スローセックスと呼ばれるものの、もう少し手前あたりに在るものを探りたい。
たとえば、会話。 お互いの心の中を深く見せ合い、セックスについて手をつないだまま語り合うとき、 身体は反応し、充分に濡れるのです。 かつてそんな風に、肉体的な交わりはないけれども、会話で充分にセックスをしているよね、 と感じられる人と出会ったことがありました。 もちろんその会話だけで、肉体的なオルガスムを得ることはできないけれど、 精神的な充足感は、セックスよりも豊かに感じることさえありました。 肉体的快楽の伴わない、 精神的なオルガスムというものは、確かに…

人は中身よ、という迷信。

イメージ
人間見た目じゃない、中身が大切。 ・・・ということをときどき耳にします。
見かけばっかり気にしているような人はダメ、とか。 その手の言葉を聞くたびに、何かこう、 しっくりこない肌触りの悪さを感じます。

外見を、 生きることの優先順位で上位に置くやつなどロクなもんじゃない、ということ。 コントラストをつけて極論で考えると、 見た目の綺麗な人は、大抵、心が汚れている。という意味になりますよね、つまり。
太っている痩せている、可愛い可愛くない、そして身に着けているもの。 その外見をスキャンすることで、人となりを読み取ること。 その読み取りを間違えないために、 外見に惑わされるなということだとは思うのですが、 そのときに容姿や身に着けたものという少ないデータだけで 読み取ろうとするからエラーが起きるのだろうと。

人の人に対する評価というのは、その人の環境因子で大きく変わってくると思います。 同じ服装をしていても、 「着飾ってチャラチャラ軽薄」と感じる人と、 「楽しげなキャラに合ってる」と感じる人と。 ボサボサ頭を「だらしない」と感じる人と、「素朴」と感じる人と。 その人を信用できるかできないかを判断する時、 それぞれに感じた外見の印象で、評価の基準ラインが違っているはず。 それはすでに、外見を含めた内面をみているということですよね。
軽薄そうに見えたけど、実は誠実な人だった。 というのは、自分の経験値の中で判断する印象が軽薄だったということで、 楽しげな雰囲気の人だと思ってたけどやっぱりいい人ね、 という評価の人もいると思うのです。

そもそも外見と人格とは、乖離できるものでしょうか。
つい先日亡くなった父は、 「いくら飾っても人格が外見にでる。ちゃらんぽらんな奴は外見もちゃらんぽらんなのさ」 と、よく話していました。

人に対する評価の焦点が、見た目側からでも人格側からでもなく、 中身が外見となり、外見が中身となること。 卵が先か鶏が先か理論に近いものではないのかな、 と、そんな風に思います。

同じように見えて漆とプラスチックは違います。 プラスチックと知っていて、漆でなくても問題ないと選ぶならOK。 漆だと思っていたのに、実は後からプラスチックと知るのは、 知識不足が引き起こすエラー。
雑なたとえかもしれませんが、人も同じではないかなと思います。

おばさん、という蔑み。

イメージ
いい歳をして、正直、もう恋愛なんて面倒。 ・・・独身で同い年の友人がいいました。 「いい歳」って何歳からいわれることでしょうか。

年齢なんて関係ない。 などと言葉ではよく耳ににするけれど、 実際、それをカラダを持って堂々と示している人は少ない気がします。
自分のことを「まぁ、おばさんだから仕方ないわ」と自嘲気味に言う友人のなんと多いことか。

そう、自嘲。 自分をあざける言葉を普通に口にすること、 同年代の人を十把一絡げに同じ土壌に乗せてしまう「自嘲句」のような言葉に とても違和感を感じます。
それはつまり「謙遜」や「謙虚さ」ということの表明なのでしょうけど、 他人から指摘される前に、先に自ら自分を落としておくことで、 自己防衛策として、落とされて傷つくことを避けているのだろうと。 けれど自己卑下を甘んじて先に受け容れることが 「大人として持つべき常識」のように語られることにとても居心地の悪さがあります。

そんな自信ないもの、そうでしょう? だってもう若いとは言えないし、どうせ無理よ。 ・・・ その種類の言葉がためらいなく交わされるのは、 年齢によって判断される「常識的な共通イメージ」が強すぎるのだろうなと思ったり。 それはメディアが作りあげているとも言えるけれど。 「いいトシをして云々」とか「いい大人が云々」などという言葉も同じ。 この年齢なら、「●●していて当たり前」「●●であるのが常識」という 年齢に応じた「偏見」という眼鏡をかけることを強いられているような。
多くがその眼鏡を普通に持ち合わせているのだから、 その眼鏡を外して語ることは同調意識から外れてしまう。 あえて主張するまでもなく、年相応意識は合わせるべき。 ・・・分かるけれど、多くがマイナス意識として語られることに空しさを感じるのです。

年齢を重ねることは、恥ずかしいことでしょうか。 美しさとは肌のハリツヤだけの話しでしょうか。 そんなわけないじゃない!と真っ先に言うであろう友人でさえ「若くはない」と溜息をつく。
ものごとや人の在りようには、そうなるべくしてなった理由があると思います。 ここまで生きてきて、小さな選択を繰り返してきた結果の自分がここに在る。 その結果がこれだよなぁ・・と山盛りにある溜息や情けなさ、 常識眼鏡でみたら「いい歳をして」着地していない自分を放り投げたくなること。 いろんな葛…

24歳に戻るとき。

イメージ
白い坂道が空まで続いていた ゆらゆらかげろうがあの子を包む 誰も気づかずただひとり あの子は昇っていく 何もおそれない そして舞い上がる 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命は ひこうき雲

映画の主題歌にもなった「ひこうき雲」というユーミン荒井由美時代の曲。 今日、仕事をしながらずっと旧いユーミンを聴いていて、 この曲を何度もリピートしていました。
この曲を聴くと大切な親友を思い出すのです。

学生時代、お互い重症な片想いを抱え、うまくいかない恋を一緒に悩み、 出遅れた就職活動を心配し合い、 毎年私の誕生日には、必ず好物のアップルパイを焼いてくれた彼女。
24歳のとき、 幼稚園からずっと一緒だった彼女は突然、世を去りました。 将来、一緒に「喫茶店」を開く夢を抱いていました。 私が店の内装やロゴをデザインして、彼女が得意の腕をふるってパンケーキを焼く。 珈琲は絶対にネルドリップにしよう。 食器は、飾り気のない、だけど温かみのある肉厚の白で。
会社に勤めながら週末に料理学校に通い、「調理師免許を取るからね、待ってて」 と、会うたびにお店の青写真を話し合って過ごしていたのに。

どれだけ時間が経っても、彼女と過ごした時間を想うとき、 私は24歳に戻るのです。 一緒に行ったスティービー・ワンダーの武道館。 サザンの大雨の中の野外LIVE。新宿で観たオールナイトの映画。

ユーミンのこの曲は、彼女が好きでよく口ずさんでいた曲。 この曲は私を24歳にタイムワープさせてしまう。
音楽のもつ、チカラですね。